『意見や考え方は人それぞれ』と言いますが、じっくり聞くとほとんどの場合は話が脱線してしまいます。
日常会話などの他愛も無い話ならば気になりませんが、夫婦や恋人同士であれば深刻化してしまう話題が、あるかも知れません。
しかし自分の意見を強引に通しても、何の解決にもなりません。
お互いに理解しようと思うことに、意味があるんですよね。
結局、とても難しい題材なので元々無理なのかも知れませんが、最終的に着地する地点を変えるだけでも、大きく結果が変わるはずです。
今回はスピリチュアルな観点も交えながら、考えてみたいと思います。
ゴミのポイ捨て公園
桜の季節なので、先日友人と大きな池に隣接する公園へ出掛けました。
開花状況は散り始めで、桜吹雪となり最高のお花見日和だったのですが、一つ気になることがありました。
それは、とにかく公園から駐車場までが、ゴミで溢れているのです。
こういう表現はどうかとも思うのですが『この時代に?』と感じてしまうほどです。
またゴミの種類は、弁当箱やペットボトルや缶、オムツや壊れたおもちゃまでと幅広く、その心理を理解しようにも不可能だと思ってしまったわけです。
また帰りがけには、バーベキューグループが喧嘩を始めるなど、なかなかの白熱ぶりでした。
ちなみに普段から私は、なるべく腹を立てなくて済むように『極限まで相手を理解しよう』とし、それでも無理であれば『見えない存在』へと置き換えるようにしています。
今回は『これ以上ここにいたら、危険』というイメージをキャッチしたので、早々に退散しました。
心理と風水
異様な雰囲気は土地柄なのかと思ってしまうほどだったので、風水の観点からも調べてみました。
丁度『気の通り道』でもあり、位置や川の流れには問題ありません。
方角も良く、健康な土地のようです。
断層からも鑑定しましたが、やはり良好な地域という結果が出ました。
こうなれば、完全に土地のせいではありません。
霊的な感じは受けなかったので、やはり『集団心理』なのだろうという結論に落ち着きました。
集団心理の分析
人は元々、集団の中で生活する『群れ』の習性がある生き物です。
集団であることに安心を感じることは、本能なので悪いことではありません。
しかし動物的な弱者への攻撃は、人間として『霊(たましい)レベルの低さ』以外の何物でもないのです。
ゴミを捨てる捨てないの良し悪しは、議論してもあまり意味が無いでしょうからしませんが、状況という皮を剥ぎ取り、もっと中心の心理と向かい合ってみたいと思います。
・みんなが捨てているから、自分も捨てる。
・持ち帰るのが面倒だから捨てる。
・公園管理者が掃除するべき。
これを極限まで訳すと『自分の喜びの為』となるのです。
しかし残念ながら、本来の喜びとは種類が違います。
ゴミを捨てた結果は『人に迷惑を掛け不快にし、環境を汚す』だけです。
私の思う喜びとは『人に向けた優しさが、喜びとなって返って来ること』だと思います。
スピリチュアルな制裁
『カルマ』と『ダルマ』という法則があります。
ダルマは『自然の流れ』なので『良いことをすれば自分に返って来る』という教えです。
カルマの方は打ち消しなので『自然の流れを止めた』という表現になります。
今回は『カルマ』に該当するわけですが、制裁と言っても誰かに攻撃されるわけではありません。
カルマの本当の怖さは、自分の中から生まれるストレスなのです。
相手が明確にいれば逃げられますが、自分の中のものはどうすることも出来ず、結局自分で向き合うしかなくなるのです。
カルマもダルマも、記憶として霊に残ります。自分で蒔いた種は、必ず自分で刈り取らなければなりませんから『関係無い、気にしない』は通用しません。
潜在意識(無意識)の中で、後悔が始まるのです。
それは『本当の意味での気付き』まで辿り着かない限り、消えることのない苦しみです。
放置すれば体を内側から蝕み、オーラもどんよりと濁ります。
そして『引寄せの法則』により、同類の人間を呼ぶのです。
全て分かり合うことは出来ない
家族であれ友達であれ、結果として全てを分かり合えることは、無いのかも知れません。
上手く付き合っているとしても、どこかで我慢はあるはずです。
また長い目で見た時には、必ず歪みが生まれるものです。
しかし、それを踏まえた上で理解しようと努力することは無駄ではありません。
それこそが『学ぶ』ということだからです。
ですから、極力話を聞いてあげてく下さい。
もちろん話し好きな人を、永遠に野放しにするという意味ではありません。
意見を聞き、考え、こちらの意見を話す。
私はそれが、コツだと思っています。
当たり前と思うかも知れませんが、聞くのは意見です。
文句や不満ではありません。