時代は、常に動いています。
それは流れであり、簡単に変えることは出来ません。
生き方を学ぶとは流れを読み、結果を予想しながらの調整です。
逆らったとしても力及ばず、押し流されてしまうこともあるでしょう。
しかし、何にでも従えば良いということではありません。
意味を知り、流れを学ぶこと。
今回は思考の根本である『般若心経』の教えについて書いてみたいと思います。
般若心経とは何か
難しいことを言うつもりはありません。
興味が無い人にも、必要な部分だけ伝わるようにするのが、私の今世の使命です。
お葬式や法要などで耳にする『お経』ですが、元々はインドの教えです。
それを『西遊記』でおなじみの『三蔵法師』という中国のお坊さんが、今から1300年前にインドから持ち帰り広め、その後、日本にも伝わったという流れです。
大元はとっても長い文章だそうですが、それを厳選したものが『般若心経』で262文字です。
内容は『知恵の完成』について書かれています。
般若心経が本当に伝えたいこと
『お経』とは全て漢字であり、訳して理解することは難しいのですが、実際に何が書いてあるのかと言うと『悩みは無くならないけど、そもそも悩み自体は存在しない』ということです。
『何を言っているの?』となってしまうと思いますので、その辺りを説明します。
感覚として中学生ぐらいの男子が、まず直面するシーンがあります。
クラスの女子が『私、悩んでるんだよね』と言うのですが、特に悩みの無い男子はどこかしら自身のカッコ悪さを感じてしまいます。また、悩みに対してオシャレ感を抱くのです。
恋愛なども含め、女子の方が一歩先を行っていますから、悩みがあることに憧れてしまうのです。
これって極端な『無いものねだり』なのかも知れません。
無い方が良いはずなのに、無いことに悩むわけですからね。
その後、進学や就職などをして、ますます複雑な人間関係に直面すると、もはや悩みの渦に飲み込まれてしまったような状態になる場合があります。
しかし、悩みではないものに対しても、過剰に反応し悩みとして捉えている場合があるのです。
心の傷の実態
ここまでは悩みの『発生原因』を何となくご理解頂ければと思います。
次に『心の傷』の話なのですが、そもそも『心って何?』となる訳です。
ハートである心臓は、血液を送り出すポンプですから心とは違います。
脳は情報処理や命令、記憶をつかさどる部位です。
では、記憶が心の正体でしょうか?
実はこれにも定義があり、記憶とは命を守る為の『安全装置』なのです。
記憶は過去の経験を貯蔵し、似たような状況になると危険として知らせる役目があります。
実際に嫌な感情が湧き上がる時は、何かしら記憶の引き出しを開けるキッカケを踏んでいるのです。
これは脳の信号がそうさせる作用であり、心とは違います。
すると、答えが分かって来ました。
そうです。
心とは存在しないのです。
般若心経の心
般若心経の中で、最も多く使われている漢字は『無』です。
これは読んでそのままの意味で『無いよ』と打ち消しているのです。
もう一度、出します。
『悩みは無くならないけど、そもそも悩み自体は存在しない』
続けて言います。
『悩みを己が作り、その存在しないものに苦しめられている。それを無いものと分かった時が悟りであり、分かろうと努力することで辿り着ける』
これが『般若心経』の内容です。
かなり、ロックですよね。
これからの生き方
仏教は、輪廻天性(生まれ変わる論)を基本としていますが、キリスト教などにはこの概念がありません。
だからと言って、どちらが正しいとなってはいけません。
全ては『ケンカしない為の学び』なのです。
しかし時に、大きな流れ自体が悪い方向へ向かう時があります。
簡単に言えば『みんなが悪いことをするから自分もやる』ということです。
もうちょっと身近なことに置き換えると『自分のことしか考えない』となります。
自分の幸せとは人への親切から始まり、それは奉仕の気持ちであり社会貢献です。
しかしそれは自己犠牲ではなく、自分も相手もどちらも楽しめることでなくてはなりません。
商売に例えると、売った人も買った人も作った人も、みんなが嬉しくなくてはならないのです。
このバランスが崩れ、一時的に利益が上がってもそれは長く続きません。
なぜならば、反対側で苦しんでいる人達がいるからです。
もはや修復不能な世の中になると、天は消滅をもって解決させます。
このサイクルを繰り返させてはならないと『般若心経』などの教えが伝えられました。
結局のところ何事も『こういうもんだ』と押し付けるばかりで、その本当の意味は掻き消されてしまいがちです。これを宗教や強制と捉えられてしまうと、もはや何も言えなくなってしまいますが、全ての内容ではなく根本の意味を学ぶことで、もっと豊かに生きられるはずです。
『この世に変わらないものは無い』と言いますが間違って捉えてしまった結果『本来の形を崩してしまっているという変わり方』があるようにも思うのです。