『私、誉められて伸びるタイプなんです』
また、鬱で落ち込んでいる方に『頑張ってと、言ってはダメ』
このような話を聞いたことはないでしょうか?
勿論、誉められると嬉しくなりますし、頑張っているのに更に言われると辛くなるかも知れません。しかし、霊(たましい)の成長で考えると、少々解釈が異なります。例が正しいかは分かりませんが、いわゆる格言化されてはいないでしょうか。今回は言葉の誤りと逆説のヒントについて考えたいと思います。
人は人を諭せない
一般論や常識を全く無視する訳ではありませんが、捉え方や切り口は確実に人それぞれです。だから『あの人は分かってない』と言う人の心理は『自分と感覚が違うから不愉快』もしくは『知識の披露』という表れなのでしょう。勿論、これは『論破』という低次元ではなく、向き合って互いに学ぶ場での話です。
物事を一律にしようとすればするほど心は苦しくなり、気が付くとパワーゲーム化してしまうことがあります。例えば『昔からの言い伝え』は『先人の知恵』ではありますが、中には時代に合わないものも含まれます。その証拠に、理由を尋ねると怒り出す人もいる訳で、意味も分からず『そういうもんだ』と押し付けているだけなのです。
また『分からなければ、質問して下さい』と言う割に、質問したら説教の対象にされることもあります。こうなると、分からなくても『分かりました』と答えておいた方が、火の粉を浴びずに済むと考えてしまう人も増えるでしょう。
人は必ず経験から学ぶので、情報の裏付けを無視することは『流されやすい自分の無い人』となってしまうかも知れません。それで結局、何が言いたいのかといえば『人を諭す必要は無い』ということです。
『誉められて伸びるタイプ』は誉めないと怒る
時が流れ、現在は『評価』の時代になりました。
以前は上司が部下を評価していましたが、今では部下が上司を評価するようになり、その影響力も大きくなっています。
そうなると教育の質が問われる訳で、中には『育て方が下手』と責任転嫁する場合もあるようです。しかし、お互いの本質は単純で、上司は苦労話が好き、部下はほどほどで十分みたいなことに落ち着きます。
こういう話に首を突っ込むと、愚痴の応酬に巻き込まれるだけなのですが、解決策は全て自分の中にあります。結局『誉められて伸びるタイプ』はそれ以上を求めるようになりますし、逆に誉めなければ不機嫌になります。正当な評価は絶対に必要ですが、まずは『自分始動』を優先すべきなのです。
この辺りの話、表面的に捉えてしまうと解釈が遠のいてしまうほど難しいのですが、もしも今苦しさを感じているならば『誉める側』の思考になれば、違う景色が見えるはずです。
鬱病を悪化させる情報
鬱病は『病』です。
だから『甘え』ではありません。
そんなの常識となっているはずなのに、社会は理解してくれませんよね。理由は単純で、鬱病経験の無い人は、その苦しさが分からないからです。更に『ちょっと良い話』みたいなのを鵜呑みにし、本質を見ようとしない傾向にあります。
そもそも鬱の原因は栄養バランスの崩れであり、症状として心と体の両面にブレーキを掛ける仕組みなので、身動きが取れなくなる訳です。だから回復方法は、考え方を改め心を整えることと、ちゃんと食べて行動することで、気を回してあげることなんです。
ただし、それにはキッカケとなる『頑張り』が必要なのですが、それを言ってはダメと言われてしまうんですよね。その原因は表面的に一人歩きした誤ったメディア情報にあります。確かにスマートフォンからほとんどの情報を入手する時代ですから、混乱しても不思議ではありません。
そうなるとオーラは淀み、小さくなってしまいます。
天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)
知識を披露したい訳ではありませんが、分かりやすいと思ったので難しそうな言葉を出しますね^_^
『天上天下唯我独尊』は釈迦の言葉ですが、ざっくり訳すと『この世で我が一番偉い』となります。表面的に捉えると危険なのですが、ちゃんと深い意味を持っています。宗教用語なので解釈に正解はありませんが、今回のテーマに沿うと『この世で私が一番偉いから、誰かに誉められようとは思わない』となります。
・誰かに誉められる為に行動するのではない
・誰かの顔色を伺いながら生活するのではない
・誰かの為に生きるのではない
これは『坦々と生きること』であり『人生劇場の主役は自分』ということです。この世に唯一の自分の人生を、自分が自分で生きる為の覚悟です。
まずは自分を芯に置き、その上で良き仲間と共に歩くこと。
ここにブレが無ければ『誉められたい願望』や『裏のある言葉』の重要度が薄まり、自身の目的と欲に向き合える人生となるはずです。
心とは、実体の無い不思議なものです。
内臓と同じで、位置や重さを感じることは正常ではありません。
霊の欲は、素のあなたの喜びなのです。