私が嫌われても構わないという前提で、重要な話をします。
不安や恐れは罪です。
家族や大切な友人を思い、あなたが心配する気持ちは分かります。
でもねっ。
度が過ぎれば、それは迷惑なのです。
不安とは罪である
私の親類にも、とても不安症な方がいます。
例えば旅行に行こうとして、楽しく打ち合わせをしていると『あの国は危ない、あの地域は危険だからダメだ』と踏み込んで来るわけです。確かに中東などの情勢が不安定な地域ならば分かりますが、一般的な観光地に対して不安を募らせているのです。
また誰かに子供が産まれると『良かったね、障害がなくて』と入り『〇〇さん家の〇〇ちゃんは・・・』と始めるわけです。障害とは個性です。その辺りは何れお話したいと思いますが、わざわざ引き合いに出さなくても『良かったね』で良いのです。
これは楽しんでいるワクワク感や喜びを断ち切り、不安な気持ちに引き込もうとしているわけですから、十分罪に値するのです。そして『そういうことは止めて』と言えば、今度は『心配してあげているのに』と怒り出すのです。
悪い人の正体
実は根っからの悪い人というのは、世の中にほとんどいません。
人は必ず良心を持ち合わせており、ちゃんと歯止めが掛かるようになっているのです。それでも犯罪が絶えないのは、スピリチャルな観点で言うと『悪魔に取り憑かれている』のです。
ちょっと信じられない話かも知れませんが、ネガティブ思考を続けていると勢いが付き、理性を飛び越えてしまうわけです。これはハメを外し勢いでとった行動を、後から反省する姿と似ています。
自ら命を絶つ人も、これと同様の作用が働いているのです。
悪いこととは『結果』です。
自分の強さをアピールしたければ、威嚇的な行動に出ますし、人からお金を取る行為は、お金が欲しいという理由があります。ただそれに対し『相手に迷惑を掛ける』という意識が薄いのです。
『人の辛さは、自分には関係ない』や『自分が勝ち残る為の犠牲は、仕方がない』と強く思っているかも知れません。とても野生的な考えであり、調和社会を無視した霊レベルの低さを感じます。
2種類は同じ罪
反社会勢力のような明らかに悪いとされている人は、見た目に現れるものです。
街を歩いていても直ぐに分かるため『近付かない』という対処ができるのです。
しかし先に上げたような『不安症、心配症』の方は、見た目では判断できません。
一見良い人なので近寄りやすく、話しているうちに何となく疲れて来るのです。
そして気が付いた時には、自分も一緒にネガティブな気持ちになるのです。
生きている世界は違いますが、どちらにも共通して言えるのは『人に迷惑を掛けている意識が無い』ということです。『気付いていない』とはとても恐ろしいことで、マイナス要素以外の何物でもないのです。
人は誰もが、まだまだ未熟ですから、気付きに達していないことがあるのは当然です。
しかし、それには種類があります。
毒を撒き散らし、人が離れて行くのを見ていながら気付かないと言っているのです。
みんな嫌われたくないですから、なかなか注意をしてくれるわけではありません。
それでも中には、言ってくれている人もいるはずなんですよね。
すると、聞こうともせず怒り出すわけですから、野生動物の威嚇行為と変わらないのです。
反省から『気付き』が生まれる
世の中、上手く行っているように見える人ほど、壁に当たっています。
これは本人が言わないだけで、確実な事実です。
しかし、そういう人には勢いがありますから、壁を突き抜けてしまうわけです。
もちろん、無理やりではありません。
さて、上手く行かない人と比べて、一つだけ違うことがあります。
それは壁を障害物と思っていないのです。
新しい分野に進めば、必ず知らないことや出来ないことは出て来ます。
それを当然と捉え『楽しみ』に変えているのです。
その中でも失敗や挫折はありますが、ちゃんと向き合い反省をしているのです。
嫌にならず、怒りもせず、人のせいにもしない。
失敗の原因を反省して気付けば、次に喜びが待っていることを知っているんでしょね。
だから『気付かせてくれて、ありがとう』なのです。
人に指摘され腹を立てた時の、感情の動きを見てみましょう。
基準を『0』と考えた場合、指摘される部分があれば『−』になりますよね。それで指摘に応じた場合は『0』になると考えるから、怒りが込み上げて来るのです。
それに『みんなと同じにしなさい』という聞こえ方がするから尚更です。
しかし、そうではありません。『0』地点とはただただ『何もやらなかった』という位置なのです。
指摘から気付き『分かった上でやらない』となるので『+』なのです。
『0』と『+』には雲泥の差があります。『+』の領域には可能性が多く含まれてるのです。
状況によって最前の方法を出すことも可能だし、あえて何もしないということも出来ます。
『+』の領域とは人の使命である『徳を積む準備が出来た状態』でもあるのです。